IPAの限界

国際音声記号(IPA)を学んだ人の中にはしばしば、何らかの音声に対して、唯一のIPA表記の正解があると考える人がいます。しかし、この認識は正しくありません。IPAには原理的に限界があり、そもそも唯一の正解の表記というものは存在しません。

離散性

IPAの限界を示す側面の一つは、離散性・連続性にかかわります。IPAは離散的な記号ですが、現実の音声は連続的な性質を持っているのです。音声は、次に述べる二つの面での連続性を有しています。

第一の連続性は、時間軸上のものです。音声は時間軸上で連続的に変化します。例えば、英語において母音に鼻音が後続すると、その母音の区間内でだんだんと鼻音化が生じるというパターンをとります(これは以前のページで扱った「調音結合」の例とみなすことができます)。具体例を示すと、dinという発音をするとき、[i] の最初のほうではほとんど鼻音化しておらず、だんだんと鼻音化し、[n] の直前ではかなり鼻音化が生じるという実験結果があります(Cohn 1993)。

第二の連続性は、分布に関するものです。例えば、母音のページで説明したように、母音は母音空間上に連続的に分布します。したがって、例えば [i] と [e] の間には無限の中間段階が存在します。

このような連続的な性質のゆえに、ある記号が示す音と別の記号が示す音の間には、そもそも明確な境界がないのです。もちろん、これに対して、操作的な定義を与えれば(例えば、第1フォルマントが400 Hz未満で第2フォルマントが2000 Hz以上の音を [i] とするといったかたちで定義を決めてしまえば)、[i] を明確に定義することはできるでしょう。しかし、IPAに対してそのような定義はされてきませんでしたし、そうする必要性・意義もおそらくないでしょう。

パラメター

IPAの限界を示すもう一つの側面は、分類基準(言い換えれば、パラメター)にかかわるものです。

IPAにおける音声の分類は、シンプルな分類基準によってなされています。例えば、IPAにおいて [b] は、肺臓気流の流出、有声、両唇音、破裂音として特徴づけられます。しかし実際には、[b] を特徴づけるものはこれだけではないかもしれません。ある言語の音と別の言語の音が同じ [b] で記述されるとしても、細かく見ていけば、違った特徴を有しているかもしれません。

分類基準が明確なようで、実は曖昧な部分もあります。母音のページで述べたように、母音は一見すると舌の最高点の高さと前後位置という調音上の基準で分類されているようで、実際には聴覚印象に大きく依存しています。

また、世界の言語の中には、IPAの分類基準のみでは特徴を捉えきれないものもあります。例えば韓国語の濃音は単なる無声無気音ではなく、喉頭の緊張を伴っており、子音直後の母音部分の声質にも影響を与えます。

要するに、音声の産出に関与するパラメターが多くある中で、IPAの分類基準は少数の主要なパラメターだけにもとづいているのです。

IPAの有用性

以上述べてきたことは、IPAに対する批判ではありません。そもそも上の二つの限界は、IPAが記号であるがゆえの宿命だとも言えます。記号はそもそも離散的であり、分類基準が限定されたものでなければなりません。

そして、発音を記号で表すということは、様々な場面で必要なことです。例えば、未知の言語を記述したり、音韻論や歴史言語学の議論をしたりする上で、発音の記号の存在は欠かせません。また、言語教育においても、やはり発音の記号は役に立つでしょう。

重要なことは、IPAの限界を認識した上で利用するということです。IPAが決して発音そのものではなく、発音を便宜的に表す記号体系だという認識を持つことが大切です。

参照文献

Cohn, A. C. (1993). Nasalisation in English: phonology or phonetics. Phonology10(1), 43-81. [論文リンク