このページは授業用の解説ページです。学習する際に、以下を適宜参考にすることをお勧めします。
- 斎藤純男(2006)『日本語音声学入門 改訂版』三省堂 [Amazonリンク]
- 国際音声学協会ウェブサイト内の Inteactive IPA Chart
母音とは?
単音は子音と母音に分類することができます。以前に学習したように、子音は声道に何らかの息の妨げを伴う音と定義することができます。妨げの程度は調音の方法により違いますが、声道のどこかに何らかの妨げをするのが子音の特徴でした。
これに対して母音は、声道に息の妨げを伴わない音と定義できます。
日本語の母音と母音の分類
標準的な日本語には、「ア、イ、ウ、エ、オ」という五つの母音(正確に言えば、五つの母音音素)があります。これらの発音はどのように違っているでしょうか?
まず「ア」と「イ」を比べてみると、「ア」は口を大きく開けるのに対し、「イ」はそれほど大きく開けないことがわかると思います。このような口の開き具合を、調音音声学では「開口度」(aperture, vowel openness, vowel closeness)といいます。ただし、この両音をよく観察すると、口の開き具合だけでなく、舌の最高点の高さが異なることがわかります。「イ」では最高点の位置が高く、「ア」では低くなっています。開口度と舌の最高点は多くの場合に連動しますが(開口度が広い母音は舌の最高点が低い)、こんにちの音声学では後者の特徴が母音を分類する上でより本質的だと考えられています。なお、舌の最高点の高さは、単純に「母音の高さ」(vowel height)とも言われます。「ア」のように広い/低い母音は「広母音」(「ひろぼいん」;open vowel)または「低母音」(「ていぼいん」;low vowel)と呼ばれ、「イ」のように狭い/高い母音は「狭母音」(「せまぼいん」;close vowel)または「高母音」(「こうぼいん」;high vowel)と呼ばれます。
次に、「イ」と「ウ」を比べてみましょう。「イ」と比べて、「ウ」は舌が後ろに引かれるのが内省でわかると思います。調音音声学では、舌の最高点の前後位置(あるいは舌の前後位置)が、母音の分類基準の一つと考えられています。「イ」は前寄りであることから「前舌母音」(「ぜんぜつぼいん」または「まえじたぼいん」;front vowel)、「ウ」は後ろ寄りであることから「後舌母音」(「こうぜつぼいん」または「うしろじたぼいん」;back vowel)と呼ばれます。
では、日本語の「エ」と「オ」はどうでしょうか?「エ」は高さに関して「イ」と「ア」の中間ぐらいであり、「オ」は高さに関して「ウ」と「ア」の中間ぐらいであることが、内省でもわかると思います。
日本語の「オ」にはもう一つ特徴があります。「オ」は「ア、イ、エ」と比べて、唇を丸くとがらせて発音することが一般的です。この唇を丸くとがらせる特徴のことを「円唇性」(vowel roundness)といい、この特徴を持った母音を「円唇母音」(rounded vowel)、そうでない母音を非円唇母音(unrounded vowel)といいます。
では、「ウ」の円唇性はどうでしょうか。「ウ」の円唇性については個人差や地域差があり、円唇母音で発音する人も非円唇母音で発音する人もあると言われています。皆さんの発音はどうでしょうか。
さて、調音音声学において母音は、舌の(最高点の)高さ、舌の(最高点の)前後位置、円唇性という三つの基準によって分類されます。
母音空間とIPAの母音チャート
音声に連続的な側面があることは、以前に扱った通りです。母音においては特にこの連続性を意識することが大切です。例えば、「イ」からだんだん舌の最高点を低くしていくと「エ」になり、さらに低くしていくと「ア」になります。だんだん低くしていくことを意識すれば、「イ」と「エ」の中間の発音をすることもできます。
ここで、母音の高さを縦軸、前後位置を横軸とし、二つの軸を連続的な尺度とみなすと、空間を描くことができます。これを母音空間(vowel space)といいます。母音空間はしばしば、下図のように下が狭くなる台形として描きます。これは、低母音ほど前後に動かせる程度が小さくなるからです。
IPAにおいては、この母音空間を下図のように格子状にして母音を捉えます。高さについては4段階で示され、上で述べた狭母音と広母音の間には、半狭母音、半広母音という名称が与えられています。前後位置については3段階で示され、上で述べた前舌母音と後舌母音の中間には中舌母音という名称が与えられています。IPAにおけるこのような母音図を母音チャート(vowel chart)といいます。
縦線と横線が交わる部分には記号が二つずつ与えられています。左の記号が非円唇母音、右の記号が円唇母音を示します。例えば、前舌の狭母音にはiとyが並んでいますが、[i] が非円唇母音、[y] が円唇母音です。ドイツ語の ü で綴られる音はたいてい、[y] のように発音されます。IPAの母音チャートには上で示した以外の記号もありますが、後で説明するため今は省略しています。
上に述べたように、母音の分類基準は連続的な性質を持っており、母音空間やIPAの母音チャートは連続的な空間を意味しています。母音チャートにおいて格子が交わる点は基準点であり、現実の音声は基準点と一致するわけではありません。例えば、日本語の「イ」は母音チャートにおける [i] の点の近くにありますが、[i] の点よりももう少し中よりに広く分布する傾向にあります。日本語の「イ」がIPAで [i] と表記されるというとき、それは [i] の記号が配置されている点ぴったりで実現されるという意味ではなく、「イ」の分布に近い位置にある記号が [i] であり、[i] で近似されるという意味です。これは日本語の母音に限ったことではありません。IPAの格子状の各点は基準点であり、現実の音そのものではないのです。
では、母音チャートの各点はどのようにして決められているのでしょうか。母音チャートの基準点の取り方は、左上の [i] と右下の [ɑ] を定義するところから始まります。まず、[i] は、舌をなるべく前方にそして高く、つまり硬口蓋の方向に近づけていき、有声硬口蓋摩擦音 [ʝ] にならないぎりぎりの位置で調音される母音として定義されます。次に、[ɑ] は、舌を奥に引き、つまり舌根を咽頭壁に近づけていき、有声咽頭摩擦音 [ʕ] にならないぎりぎりの位置で調音される母音として定義されます。そして、残りの各点は、この二つの点を基準として、聴覚的な印象によって決めれらます。
「聴覚的な印象によって」という説明に驚いた人もいるかもしれません。子音の各音が厳密に調音上の特徴によって定義されていたのに対し、母音は調音上の特徴によって定義することが難しいのです。例えば、母音チャートにおいて [i] と [u] は同じ高さに配置されていますが、現実の音声において [i] と [u] の舌の最高点の高さは実際には同じではなく、[u] の方がずっと低いのです(ラディフォギッド 1999: 209の図9.3、斎藤 2006: 75の図63参照)。そもそも母音の調音位置を内省で正確に把握することは難しいため、過去の音声学者たちは、聴覚的な印象に頼って母音の分類をしてきました。その後、技術の進展によって舌の最高点を計測できるようになってからも、調音音声学における母音の捉え方の枠組みは、大きく変更されることなく引き継がれてきました。音声学者のラディフォギッドは、これと関連して次のように述べています。
音声学専攻の学生がしばしば発する質問に、単に聴覚的性質に分類名称をつけているのであって舌の位置を記述しているのではないというのであれば、何故に高、低、後舌、前舌、という用語を使うのか、というものがある。それに対する答えは、それは主として伝統の問題だ、ということである。
ラディフォギッド、竹林・牧野訳(1999: 97)
ところで、IPAの母音チャートは舌の最高点という調音音声学的な捉え方を厳密に対応していませんが、母音の音響音声学的特徴(特に「フォルマント」)と関係するところがあります。母音の本質は、音響音声学を学んではじめて理解できるといっても過言ではないと、私は考えています。
ダニエル・ジョーンズの基本母音
上で音声学の伝統について少し言及しました。母音に対する理解を深めるため、この伝統と関わる部分をもう少し見ていきましょう。
音声学史を語る上で、ダニエル・ジョーンズ(Daniel Jones; 1881-1967)という英国の音声学者は欠かすことができません。彼が確立した「基本母音」(cardinal vowels)という概念は、IPAにおける母音の捉え方にほとんどそのまま受け継がれています。
ジョーンズは、8つの基本母音(あるいは第一次基本母音 primary cardinal vowelsとも言います)を提案しました。そのうちの二つが上に挙げた [i] と [ɑ] です。それぞれ、有声摩擦音の [ʝ]、[ʕ] にならないぎりぎりの調音位置による母音として定義されます。これは上にも述べたとおりです。その上で [i] から [ɑ] に至るまでに位置する前舌母音を、聴覚的に等間隔になるように四等分します。そしてこれらを [e]、[ɛ]、[a] と定義します。今度は、後舌に関して、聴覚的に先ほどと同じ間隔で3段階高くしていきます。このとき、舌を高くしていくだけでなく、円唇性も少しずつ強めていきます。このようにして、[ɔ]、[o]、[u] が定義されます。なお、基本母音は [i] から反時計回りに [u] までを (1) から (8) までの番号で呼ぶことがあります。例えば、「基本母音の6番」と言えば、[ɔ] のことです。
ジョーンズはさらに、第二次基本母音(secondary cardinal vowels)も定義しました。番号でいうと (9) から (18) までが第二次基本母音です。このうち (9) から (16) までは、(1) から (8) までの円唇性を反対にしたものです。(1) から (5) までは非円唇母音なので、これと同じ舌の位置で円唇母音にしたものが (9) から (13) です。これらはそれぞれ、[y]、[ø]、[œ]、[ɶ]、[ɒ] という記号が与えられています。第一次基本母音の (6) から (8) は円唇母音なので、(14) から (16) はこれらと調音位置を同じくする非円唇母音です。これらはそれぞれ、[ʌ]、[ɤ]、[ɯ]という記号が与えられています。最後に、(17) と (18) は、(1) と (8) (すなわち [i] と [u])の中間に位置する非円唇母音・円唇母音として定義されます。記号としてはそれぞれ [ɨ] と [ʉ] が与えられています。
さて、ジョーンズの基本母音という概念は、その大部分が聴覚印象にもとづいており、主観的なものです。その一方で、基本母音が便利な概念であり、母音の記述においてこれまで広く用いられてきたこともまた事実です。
参考ウェブサイト
以下のページでは、第一次基本母音と第二次基本母音の計18個の母音について、ジョーンズとラディフォギッドの発音を聞くことができます。
参考動画
以下はジョーンズ自身による解説の録音です。聞いてみましょう。
母音の練習
IPAの母音の練習は、調音を明確に意識しながら行いやすいものと、そうでないものとがあります。母音チャートの中で二つずつ並んでいる非円唇母音と円唇母音のペアについては、調音を意識しながら練習することができます。例えば、[i] と [y] は調音位置が同じで円唇性のみが異なるので、[i] を発音してから、舌の位置を動かさずに円唇性をつけていくと、[y] になります。
一方で、母音空間上の位置にかかわるものについては、調音位置を意識しながら練習することに限界があります。これは、ここまで繰り返し述べてきたIPAの母音の問題―すなわち、聴覚印象に依存していること―と関係しています。例えば、[i] からどの程度舌を低くすれば [e] になるかは、過去の音声学者たちが聴覚的に定めた基準に従うしかないのです。ただ、幸いなことに、過去の音声学者たちの録音はたくさんありますので、それらを聞いて真似をすることで、母音空間とその基準点に関する感覚を養うことは、ある程度できるでしょう。そのようにしてIPAの母音の練習を一通りしてみた後で、自分自身の発音する日本語の母音が母音チャート上のどのあたりに位置するかも考えてみましょう。
参考ウェブサイト
以下のInteractive IPA Chartでは4人の著名な音声学者の発音を聞くことができますので、それらを聞きながら練習してみましょう。
また、以下のページからスペイン語とデンマーク語の母音を聞いてみましょう。
参照文献
斎藤純男 (2006) 『日本語音声学入門 改訂版』三省堂. [Amazonリンク]
ラディフォギッド, P. (竹林滋・牧野武彦 共訳) (1999)『音声学概説』大修館書店. [Amazonリンク]
学習案内
母音については、調音音声学における母音チャートの限界を含め、(上の参照文献にも挙げた)『音声学概説』で複数の章(1章、2章、4章、9章)にわたって詳しく解説されており、参考になります。このページの説明もこの本を参考にして作成しました。
上の日本語版は原書第3版の翻訳ですが、原書は現在のところ第7版まで出ています。