日曜日の側面摩擦音:調音音声学と国際音声記号(IPA)のすすめ

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日曜日,Lyftのドライバー

子どもたちを連れてアメリカに来ている。その日は日曜日。朝食を食べてから外に買い物に出ようと思って,Lyftの車が来るのを待っていた。Lyftというのはライドシェアの一つで,Uberと似たようなもの。タクシーの代わりだ。車社会のカリフォルニアではどこに行くのも車なのだが,私たちはまだ自分の車を持っていないので,出かけるたびにLyftを呼ぶ。

スマホのアプリの音がなった。もうすぐ車が到着しますという案内とともに,車の車種,ナンバー,ドライバーの名前が表示された。車種は白いプリウスだそうだ。

それからすぐに,白いプリウスはやってきた。後部座席のドアをあけ,子どもたちと一緒に車に乗り込んだ。ドライバーが陽気な声で挨拶してくれた。その英語には訛りがあるように感じられたが,どこの訛りかはよくわからなかった。たぶん外国の出身なのだろう。カリフォルニアには外国出身者はたくさんいる。これまでのLyftのドライバーにも,中国とかインドとかイランとか,いろいろな国の出身の人がいた。

Lyftのドライバーには物静かな人もいれば明るい人もいる。この日のドライバーは後者のタイプのようだった。日本から来たのかと聞かれ,そうだと答える。

「いちど日本に旅行に行ってみたいですねえ。」

とドライバー。

「ぜひ行ってみてください。でも夏はやめたほうがいいですよ。カリフォルニアとちがって,日本の夏はとても蒸し暑いですから。」

と私は答えた。

「暑いのは全然大丈夫ですよ。私は暑い国の出身ですから。」

とドライバー。

「へえ,どちらのご出身なんですか?」

こう私が訪ねると,ドライバーは出身国を教えてくれた。日本ではなかなか耳にしないような国で,私の知識ではアフリカのサハラ砂漠より南のどこかだというぐらいはわかったが,正確にどのあたりに位置する国なのかはわからなかった。

その後はまた,日本の話に戻った。私とドライバーが英語で話している間,子どもたちは私とドライバーが会話するのを,面白そうに眺めていた。ドライバーもそんな子どもたちの様子に気が付いて,子どもたちに質問をした。

「名前は?」

上の子と下の子が,ちょっと恥ずかしそうにそれぞれ自分の名前を答えた。ドライバーは子どもたちの名前を聞いて,後に続いて発音した。それから,自分の名前を教えてくれた。今度は子どもたちが,後に続いて発音した。

「サシャ」

ドライバーは首を振りながら,ちょっと得意げな感じでもう一度発音した。母語話者以外がうまく発音できないことに慣れているのだろう。

私も発音してみた。

[saɬa]

そしたらドライバーは少し驚いたように,そうだと言った。ポイントは2音節目の無声側面摩擦音。発音の仕方を頭で理解していれば、実はそれほど難しくない音だ。

そうこうするうちに目的地のショッピングモールに着き,私たちは車を降りた。ドライバーは最後に「良い一日を」と言ってくれた。車が去ったあと,私はスマホのアプリで,いつもより多めのチップを支払った。

ウグボウェ?

ショッピングモールで買い物をして,昼食を食べてから,別のLyftに乗ってアパートに帰った。

アパートに帰ってからさっきのドライバーの国のことをもっと調べてみたくなって,子どもたちと一緒にインターネットで調べてみた。アフリカのどのあたりにあるかとか,内戦の歴史とか。その国で最も話者数の多い言語は,その国の約半数の人々が母語としているらしい。さっきのドライバーの母語もその言語なのだろうか?あるいは,また別の言語なのだろうか?言語学者としては不覚にも,その人の母語が何かを聞きそびれてしまった。

一緒にウィキペディアのページを見ていた子どもたちは,そういう難しい話にはあまり興味を持たず,ただページに書かれていたその国の首都の都市名を面白がっていた。「ウグボウェ」と書かれていた。

その横には,アルファベット表記とともに,以下の表記が書かれていた。

[ùɡ͡bóβɛ̀]

私がそれを読んでみると,上の子が驚いて声をあげた。

「え,パパそれ読めるの?」

「うん。パパはこういうの大学で教えてるんだよ。」

私は得意げに答えた。

「やば!」

最近の小学生の「やばい」の用法が私にはよくわからないけれど,褒められているのだと解釈することにした。

[ここまでの話はフィクションで,ドライバーの名前も,国も,言語も,首都名も,全て架空のものです。]

調音音声学と国際音声記号(IPA)のすすめ

私は大学で音声学を教えている。そこで扱う中でも特に中心的となるのは,調音音声学と呼ばれる下位分野で,世界の言語の発音の仕組み,および,発音(調音)の仕方に基づく世界の言語音の分類の方法だ。また,調音音声学とは切っても切り離せないものとして,この分類法に基づいて作られた「国際音声記号」(International Phonetic Alphabdt;IPA)という記号体系も教えている。

調音音声学を習えば,世界の様々な発音に対して多少は感度がよくなるかもしれないし,自ら発音をしたり,あるいは誰かに発音を教えるときに役に立つかもしれない。また,IPAは語学の教科書や辞書や,その他さまざまなところで用いられているので,IPAの知識があれば,その記号を読む(発音する)ことができるかもしれないし,少なくともどのような発音かを理解することはできるだろう。それに,もし上手く発音できれば,子どもたちに自慢することもできる。

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執筆者プロフィール

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宇都木昭 名古屋大学人文学研究科教授
専門は音声学・言語学・韓国語教育